未来世代は誰が守るのか ― ウェールズの挑戦

未来世代は誰が守るのか ― ウェールズの挑戦

2026.03.17

執筆:樽本 哲(インテアス法律事務所)

 最近、国際ニュースを見ていると、政治の限界のようなものを感じることが増えました。中東の紛争は止まらず、大国による国際法違反も十分には抑止できません。国連もまた、その役割を果たすことの難しさが目立つ場面があります。加えて、気候変動や環境問題といった地球規模の課題も深刻さを増しています。国家にはそれぞれ事情があり、政治には現実がありますが、それでも「未来の世代はこの世界をどう受け取るのだろう」と考えることがあります。
 そんなときに手に取ったのが、ジェーン・デイヴィッドソン著『未来のために今日行動する―ウェールズ発「未来世代のためのウェルビーイング法」ができるまで』(明石書店・2025、原著 Future Gen: Lessons from a Small Country, 2020)です。

未来世代を制度で守るという発想

 この本が紹介するのは、英国ウェールズで2015年に制定された「未来世代のためのウェルビーイング法(Well-being of Future Generations (Wales) Act 2015)」です。名前だけ聞くと少し抽象的ですが、発想はとてもシンプルです。未来世代は民主主義に参加できません。投票もできません。では、その利益は誰が守るのか。
 ウェールズはこの問いに対して、「制度で守る」という答えを出しました。
 この法律では、政府や公共機関に対して、政策を考えるときに長期的な社会のウェルビーイングを考慮することを義務づけています。また、「未来世代コミッショナー」という役職が設けられ、政府の政策が将来世代にとって望ましいものかどうかをチェックする役割を担っています。未来世代を守るのは政治家の善意ではなく、制度である。この考え方はとても印象に残りました。
 なお、この法律は気候変動など環境政策だけを対象としたものではありません。経済、社会、文化を含む公共政策全体について、将来世代への影響を考慮することを政府に求める点に特徴があります。いわば、政府の意思決定の原則そのものを長期的なウェルビーイングの視点で組み替えようとする試みです。

なぜウェールズで可能だったのか

 本書は、単に法律の内容を紹介する本ではありません。この法律がどのような議論を経て成立したのか、政治の中でどのように合意が作られていったのかが、当事者の視点から語られています。
 特に興味深かったのは、なぜウェールズでこのような法律が成立したのかという背景です。ウェールズは産業革命の中心地の一つであり、炭鉱や重工業によって発展した地域ですが、その後の産業衰退の痛みも強く経験してきました。環境や地域社会の問題と向き合う歴史があったことが、持続可能性を重視する政治文化につながった面があるようです。
 また、1998年の分権改革によってウェールズには独自の議会と政府が設けられ、2011年の住民投票によって議会には本格的な立法権限が与えられました。比較的新しい自治政府であることから、社会のあり方をあらためて設計する議論が行われやすかったとも言われています。新しい自治政府として、自分たちの社会のあり方を制度として示そうとする機運が高まっていた時期でもありました。
 ウェールズ議会では長く労働党が第一党として政治の中心を担ってきたこともあり、政策の方向性に一定の継続性がありました。こうした政治的条件も、長期的な制度改革を進めやすい背景の一つだったようです。

システム思考が生んだ政策

 そしてもう一つ、本書を読みながら強く感じたのは、ドネラ・メドウズの『成長の限界』などで知られるシステム思考の影響です。著者自身も、政策づくりにおいてシステム思考を実践してきたことを率直に語っています。社会の問題は相互につながっており、個別の政策だけでは解決できません。交通、健康、環境、教育、経済といった分野が互いに影響し合う以上、意思決定の仕組みそのものを変えなければ社会は変わらないという発想です。

 本書の構成も興味深いものです。第2章から第6章の章題は、ドネラ・メドウズが整理した社会システムを変えるための5つのソフトスキルと重なっています。ビジョンを描くこと(Visioning)、ネットワークを作ること(Networking)と、真実を語ること(Truth-telling)、学ぶこと(Learning)、慈しむこと(Loving)。本書は、こうした能力が実際の政治の現場でどのように発揮されていったのかを描いた記録とも読むことができます。
 実際、この法律の本質は「どの政策を採るか」だけでなく、「政策をどのように作るか」を変えたところにあります。ウェールズの行政には、長期視点、予防、統合、協働、市民参加といった原則に基づいて政策を検討することが求められています。つまり、政策の内容だけでなく、意思決定のプロセスそのものを変えるための制度を形作ったというのがこの法律の本当の意義といって良いと思います。

日本にもある未来世代の理念

 日本の政治を見ていると、選挙のたびに新しい論点が現れ、議論がリセットされてしまうように感じることがあります。民主主義はどうしても短期の課題に引き寄せられがちです。そう考えると、「未来世代」という視点を制度として政策に組み込もうとするウェールズの試みは、とても興味深く、野心的でもあります。
 もっとも、日本にも将来世代を意識する理念が全くないわけではありません。日本国憲法の前文は「われらとわれらの子孫のために」と述べ、11条や97条も基本的人権が「現在及び将来の国民」に保障されることを明記しています。本書の解説で濤川明日香氏が指摘しているように、こうした条文は存在していても、日常の政策議論の中で強く意識されているとは言い難いように感じます。
 もちろん、日本ですぐにウェールズと同じ制度を導入できるわけではありません。しかし、政策を評価するときに、短期的な成果だけでなく「将来の社会にどのような影響を与えるのか」という視点をもう少し意識することができたら……。
 未来世代は投票できない。だからこそ、その利益をどう制度の中に組み込むか。この本は、その問いを静かに、しかし確かな重みをもって私たちに投げかけています。

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